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上・下御霊神社

京都では北を上、南を下と言います。
かつて皇居であった京都御所を正確に南北に挟む位置に上御霊神社と下御霊神社が鎮座しています。



「御霊」はもともと「おんりょう」と読み「怨霊」のことをさします。
上・下御霊神社はどちらも794年に桓武天皇が平安京へ遷都した際、皇居を守護させるために建立した社です。


では、何故桓武天皇は上・下御霊神社を建立しなければならなかったのでしょうか。


その前に、ちょっと話は変わりますが桓武天皇は何故、長岡京をたった10年で平安京へ遷都しなければならなかったのでしょうか。



教科書では、長岡京は洪水や天災のため平安京へ遷都したということになっていますが、本当にそうなのでしょうか。


近年、長岡京の発掘が進むにつれて色々なことが分かってきました。
長岡京は大内裏(天皇の住居)や条坊(縦横の道)も完成し、十分使える状態だったのです。
また陰陽道で大吉の地相でもありさらに規模も平安京以上だったのです。


何より桂川、木津川、宇治川の合流点でもあり水上交通の要衡にもあり、何より、長岡京の北西「大枝」は桓武天皇の実家の地でもあるのです。




このような好条件の長岡京を見捨てて平安京へ遷都したのは実は桓武天皇が天皇の弟で上・下御霊神社の主祭神である早良親王の怨霊におびえたからに他ならないのです。




実は長岡京の設計者・藤原種継が暗殺された事件があったのですが、桓武天皇は天皇の弟、早良親王が主犯だとして淡路島に流させたのです。





早良親王は無罪を主張、兄である天皇に抗議のため絶食、十数日後、船
舟上で壮絶な餓死をとげます。
そして、遺体は淡路島に島流しにされてしまいます。




しかし、実際はもちろん濡れ衣でした。
桓武天皇が次の天皇の座を早良親王に譲りたくなく自分の息子に譲りたかったため、無罪の罪に陥れたのでした。








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